駒木ハヤトの西日本ボクシングレポートアーカイブ

かつて京阪神地区のボクシング会場に通い詰め、レポートを記した男ありけり。はてなダイアリーから記事をインポートしたものの、ブログ化して格段に読み難くなってしまいました。

第2部第8試合・Sフライ級契約ウェイト(51.5kg)10回戦/●小松則幸[Gツダ](1R2分16秒TKO)ラタナポン・ソーウォラピン[タイ国]○

小松は24勝(10KO)5敗6分の戦績。現在はOPBFフライ級3位、日本同級1位。97年にエディタウンゼントジムからデビュー。新人王戦にはエントリーせず地道にキャリアを積み重ね、02年5月までに5つの引分を挟んで13連勝。同年9月に初挑戦でOPBFフライ級タイトルを獲得し、以後丸2年で5度の防衛。ただし、政権末期はトラッシュ中沼[国際]との疑義にまみれた2試合の判定が激しい論議を呼んだ。05年1月、再起即世界挑戦のチャンスを掴み、当時のWBCフライ級王者ポンサクレックに挑むが5RTKOで敗れる。同年6月に再起し、11月にはフェデリコ・カツバイとのOPBF王座決定戦を制するも、翌06年に当時の日本王者・内藤大助[宮田]との王座統一戦でKOされて失陥。07年には再起戦を挟んで吉田健司[笹崎]の日本王座に挑戦するも、吉田のラフプレイに屈して6R負傷判定負けで挑戦失敗と、ここ数年はタイトル戦線からの撤退戦を強いられている。その後も敗戦の1ヵ月後にフィリピン遠征1R負傷ドロー、年が明けた08年は1月の試合では元タイ国王者のOPBFランカーに2度のダウンを喫して敗れ、4月の再起戦もタイ国王者にダウンを喫しながらの2−1判定勝ちと苦境が続いていたが、同年8月の進退を賭けた世界ランカーとの一戦に判定勝ちし、一躍日本ランキング上位に再浮上している。
ラタナポンは56勝(44KO)7敗1分とアナウンスされたが、タイ国特有の理由で記録には若干の誤差がありそうだ。現在WBCフライ級25位の下位ランクを持っている。90年に16歳でデビュー、92年にはIBFミニフライ級(=ミニマム級)王座を獲得し、以後、計量失格による王座転落があったものの、97年までタイトルマッチ20連勝の偉業を成し遂げる。以後はLフライ級に転向するが、世界挑戦3連敗。00年のリカルド・ロペスとの試合にKO負けを喫した後は05年までリタイヤ状態にあり、復帰後はノンタイトル戦で調整を続けながらチャンスを待っている段階。07年にはPABAフライ級王座を獲得し、暫定王者との統一戦に敗れるまで4度の防衛に成功した。今回は再起二戦目ということになる。日本での知名度は高いが、今回が初来日である。
1R。小松は慎重な立ち上がり。ヒット&アウェイでジャブ、ストレートを打ち込み先制。ラタナポンは試合開始直後は足の鈍い所を見せていたが、一瞬の隙を見咎めるや一気に前進してコーナー際で左フックをクリーンヒット。小松はこれを何とか凌ぐが、すぐさま左の追撃でダウン。ここは立ち上がるも、ラタナポンは容赦せず都合3発目の左フック。ロープダウン状態で踏ん張る小松を坂本主審がストップした。早めのストップだが、小松の肉体的ダメージを考えるとこれも止む無し。
ラタナポンは試合開始直後こそ動きの鈍い所を見せていたが、メリハリの利いた動きですぐさま強打を狙い撃ち。正確性と迫力十分の左フックは往時の片鱗が窺えた。関係者によると、試合開始直前にバックヤードでド迫力のミット打ちを披露し、その場に居た皆を驚嘆させていたとのこと。「全く衰えている気がしない」とは目撃者の談。どうやらとんでもない大蛇の居る藪を突いてしまったようである。
小松は弱点となってしまったアゴをピンポイントで狙われて完敗。奇跡は二度起こらなかった。そして、この試合後、亀田大毅を相手に再起戦が
決まっていたが、練習中の不慮の事故により他界してしまったのはご存知の通り。心より哀悼の意を表し、この稀代の人気選手の冥福をお祈りする。